uta3daysのブログ

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ねじまき鳥クロニカルを読みました。謎解きクロニカル

村上春樹作品が好きでかなりの数の作品を読みました。その中でも途中で断念してしまった唯一の作品が『ねじまき鳥のクロニカル』です。間宮中尉の皮剥ぎの話が結構タフで4年前に読んでそこで辞めてしまった。

人間の闇がテーマの『ねじまき鳥クロニカル』

『ねじまき鳥クロニカル』は全編で暴力や人間の内に潜む影を主体にしている。間宮中尉の戦争談は読むのに体力を使う。体力を使う本はその本を読むべきタイミングがある。今はそれができそうだったので『ねじまき鳥クロニカル』3巻に挑戦し完読することができた。

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

村上春樹作品でも難解な作品

『ねじまき鳥クロニカル』は村上作品の中でも難解な部類だと思う。抽象的なものが多く答えがハッキリと書かれることは少ない。(他の村上作品も大概同じだが)綿谷ノボルが何を人から引きずり出すのか、なぜ妻は出て行ったのか、岡田トオルは何を癒すのか読んでる途中ではわからなかった。しかし完読後様々な解釈や解説を読み自分の中で意味を掴むことができた。

謎ときクロニカル

綿谷ノボルが何を引き出すのか。そしてなぜ引き出せるのか。間宮中尉がなぜ皮剥ボリスを殺せなかったのか。岡田クミコは兄をなぜ殺さなければならなかったのかについて書いていく。

人間の丸裸な本能・欲

綿谷ノボルが引きずり出すのは人間の丸裸な本能か欲。日常生活では本能や欲は無意識に抑え込まれている。それが岡田クミコの場合は性欲であり倫理的に許されないモノだった。『ねじまき鳥クロニカル』では戦争の話が半分以上を占める。戦争もまた人間の暴力や残虐性を引き出す。綿谷ノボルも戦争も同じ力を持っている。

村上作品の主人公

村上作品の主人公はどこか達観をしていて自分自身を客観視している。岡田トオルも同じだ。自分を客観視し分離できる人間は例え自分の中に非常に暴力的な部分や倫理的に外れた自分を知ってもそれほどうろたえたり、混乱はしない。やれやれこんな部分が自分の中にあるとは驚きだ。それはそれとしてパスタを作ろう。

ひとりっ子の主人公

ほとんどの主人公が男の場合はひとりっ子だ。村上春樹がひとりっ子である事と強い関係性があるだろう。そしてこのひとりっ子というのが達観や自分自身を客観視できる要素になっている。私もひとりっ子だからよくわかるのだが周りに子供が居らず大人に囲まれていると子供の内から大人と同じ客観性を持たらざる得ない。内面的に自己を同化し子供同士との比較、相対化ができない。子供の時から大人と同じ視点でいるのは不自然である意味不幸だ。しかしこのことによってひとりっ子(そして村上作品の主人公)は客観性を持つ。

客観性の能力

客観性は自分だけではなく他者にも使用できる。複雑に絡み合ったモノや内に抑え込んでいるモノを客観性により解くことができる。綿谷ノボルはひとりっ子では無いが岡田トオルの影として書かれているので同じ力を持っていたのだろう。

間宮中尉はなぜ皮剥ボリスを殺せなかったか

間宮中尉が皮剥ボリスを殺せなかったのは暴力性など人間の根本を破壊することはできないからだ。だから岡田クミコは暴力や本能を引き出す装置の綿谷ノボルを殺さなければならなかった。

本当の自分を夫さえ知らない

自身の中にある暴力性や非倫理的な部分。岡田トオルも言っているが【結婚をしていたが本当のクミコをどれだけ知っていただろうか。】まさに人間の底の部分を共に知るのは夫婦で長く過ごしていても難しいのではないだろうか。

信じきれなかった

岡田クミコは綿谷ノボルにより自分の悪を引き出され夫から去って行った。岡田トオルは必死に妻を取り戻そうとした。妻の全てを受け入れて。しかし妻は綿谷ノボルを殺し服役する事になる。ラストで妻が帰ってくるところは描かれない。自分の悪を見つめそれを夫が受け入れてくれることを信じきれず岡田クミコは罪を犯してしまう。これはイニシエーションの失敗を意味していると思った。

まとめ

人間には悪がありそれを引き出す装置も存在する。装置を破壊することはできる。しかしそれは場所を問わずひょっこりと顔を出す。装置を破壊したり見ない振りをするのではなくその性質さえも受け止めてくれる愛があることを信じることが唯一の答えであり対抗策である。